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コラム

COLUMN

 

知らないと損する健康100の知恵
プロローグ「無知で健康は守れない」より 1/6

すべては栄養の問題

健康とはいったい何のことでしょうか。

食べ物について、私たちはどんなことを心得ていればよいのでしょうか。

親として私たちは、子供の才能を育てるための知識をもっているといえるでしょうか。

子供が病気をしたとき、おたおたせずにすむだけの心の用意をもっているといえるでしょうか。

成人病はいろいろあるけれど、私たちは自力でそれに立ちむかうことができるのでしょうか。

熟年は無事にすごせたとして、老化の問題を切りぬけることはできるのでしょうか。

女性としての健康管理には特別な問題があるのでしょうか。

肥満は何とかならないものでしょうか。

プロポーションのくずれは元にもどらないものでしょうか。

子育てに大きなエネルギーをさく若い親は、子供の健康を守ることについて、子供の学校の成績について、ひとかたならぬ心をつかいます。

その心情はよくわかるのですが、なにぶん、このような問題はむずかしいので、納得のいく道をもとめるのは容易ではありません。信頼できる指針を手にいれることすら、不可能に近いのです。ましてや、わが子が暴走族に加わるとか、覚醒剤にうつつをぬかすとかいうような場面にぶつかったとき、それに賢明に対処する方法をみつけることは、どんな親にとっても、至難の業といわざるをえません。それが、健康の問題、食べ物の問題だなどと考える人は、どこにもいないでしょう。

胸に手をおいて、落ちついてみれば、〈非行〉が、心の健康の問題であることに気付きます。精神について健康を考えることは、決しておかしなことではないはずです。精神といい心といっても、そこに、健康もあり、不健康もあることは、日常の経験に照らしても確かな事実でしょう。

健康というものは、私どものからだの状態をトータルにとらえた見方の一つです。そして、いうまでもなく、私どものからだは食べ物によって、栄養物質によって支えられています。とするならば、肉体の健康も、精神の健康も、栄養条件の左右するところでないはずはありません。非行少年をもつ親も、成績の向上を願う親も、子供の病身をなげく親も、その責任の一端が、健康管理の方針に、食生活の内容にあることを悟らなければならない、と私は考えます。

健康にはレベルがある

肉体についても精神についても、健康あり不健康ありとすると、どこまでが健康なのか、どこまでが不健康なのか、という線引きの問題がでてきます。これに対して私は、線引き不可能論をとなえる立場をとらざるをえません。

線引き不可能論では、ある人が、健康であるとも、不健康であるともいわない立場をとります。そのかわり、《健康レベル》という表現をとります。健康レベルの高い人をさして、健康人といい、健康レベルの低い人をさして、不健康人といってもかまわないようなものですが、私はそういう表現をとりたくありません。よくいわれる半健康人ということばも、私にとっては落ちつきが悪いのです。

ここに寝たきり老人がいたとしましょう。かれは病人にはちがいないのですが、私はあえてあえてかれを、健康レベルのごく低い人だといいたいのです。

なぜそんないい方をするかとたずねられたら、 私は、その寝たきり老人にも、気分のいい時もあり、調子の悪い時もあるではないか、と答えたいのです。それはつまり、その寝たきり老人にも、健康レベルの高い時もあり、低い時もある、という見方をしたいのです。

ここにぴんぴんしているスポーツ競技の選手がいたとしましょう。それは、健康な人の見本のようなものです。しかしそこにも、調子の波があるはずです。その調子の波は、一面においては精神的なものであり、一面においては肉体的なものであるでしょう。精神的とここでいうものは、恐らく神経ホルモンの状態に帰着することでしょう。また、肉体的とここでいうものは、恐らく筋肉や心臓の状態に帰着することでしょう。そこに、気象条件が影響を与えることも、十分に想像されます。

いずれにしても、そのスポーツ選手の体調の波も、広い意味では健康レベルとしてとらえられる性質のものです。ぴんぴんした若者の健康レベルも、寝たきり老人の健康レベルも、時々刻々に変動する、と私は考えたいのです。

医師はよく《健常者》ということばを使います。それは、医師の診断上、とくに病気のない人をさすことばでしょう。健康レベルの概念をあてはめると、健常者とは、健康レベルのあまり低くない人ということになります。しかし、それはあいまいなとらえ方であり、線引き思想であって、私には通りが悪いのです。

健康レベルは何で変わるか

誰の目にも病人と見える寝たきり老人にも、健康の象徴として万人の目にうつるスポーツ選手にも健康レベルの変動があり、非行少年を健康レベルの低い人間と見るのが、私の線引き不可能論です。読者の皆さんにしても、気分のすぐれない日もあり、体調のよさを誇らしげに思う日もあると思います。健康レベルが時々刻々に変動することは、疑問の余地のないところではありませんか。

そこで、健康レベルの変動が、どうしておこるかという、問題がでてくるのです。そしてこの原因が、内部では栄養に、外部では気象条件や人間関係にあるとしてよいと思います。この外部条件が重要でないというわけではありませんが、これはややこしい問題を含むので、ここでは栄養条件に目をつけることにしましょう。むろん、栄養条件のみがすべてを決定するという意味でそうしたわけでないことは、承知していただきたいと思います。

人間機械論という思想があります。 これは、時計という精巧な機械が発明されたことから、フランスの哲学者ルネ・デカルトが思いついたものでした。心臓の拍動や、肺の呼吸に着目すれば、人体はまさに時計のように規則正しく動いています。

この人間機械論は行きすぎであり、不十分であるきらいがあります。そうはいっても、人間のからだに、機械のような正確さのあることは、否定しようがありません。

目の前に石がとんできたら、まぶたはたちまち閉じるでしょう。うなぎ屋の前を通れば、唾液が出てくるでしょう。まぶたが閉じるのは、目玉の負傷を防ぐためです。唾液がでるのは、うなぎを消化するためです。人間のからだは、規則正しく合目的的に働くようにできているのです。

どうして、こんなにうまいぐあいに人体がつくられているかといえば、あなたについていうなら、それはあなたの両親があなたをつくったから、といえばよいのです。というのは、あなたの両親に、そのようなことができたからなのです。手短にいえば、遺伝がそうさせたということです。

私たち人間は、いろいろなことができます。日常語を理解し、日常語で話しあうことができます。数をたしたり引いたりする計算もできます。ボールを投げたりとったりすることもできます。走ったり泳いだりもできます。絵をかいたり字を書いたりすることもできます。服を着たりぬいだりすることもできます。すべての人がやれるわけではありませんが、服を縫ったり、家を建てたり、橋をかけたりもできます。ロボットを設計したり、スペースシャトルを計画したり、コンピューターを発明したりもできます。

これは、人間にできることは、人間にできるというあたりまえの話なのです。そしてそのすべては、親から子に伝えられた能力で、《遺伝》ということです。

遺伝をつかさどるものを《遺伝子》といいますが、私たちにできることは、一から十まで、親にできるはずのもの、といえます。というのは、私たちのからだは、遺伝子によって運営されるものだからです。

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三石巌著『知らないと損する健康100の知恵』P12~19より