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コラム
COLUMN

92歳 三石巌のどうぞお先に 第1回(全10回)

三石巌が1994年に産経新聞に連載していた「92歳 三石巌のどうぞお先に」の記事です。

 

1-1. 徴兵検査

“父の恩”で不合格に

 ボクのわかいときの日本は今よりひどいものだった。好戦国として外国からきらわれていた。戦争をやって金や領土をぶんどることの味をしめていたってことなんだろう。兵役は国民の義務だった。

 そのころ成人の日はなかったが徴兵検査の日はあった。その日、二十歳の男子はのこらずしかるべき役所によびだされたもんだ。ボクのばあいは区役所だった。おさだまりの身長、体重、視力などの項目がすむと、全員すっぱだかにされた。そのまま国家権力執行者のまえにいかされる。かれは軍服をきて椅子にこしかけているんだ。かっこうがついている。

 かれは若者の下垂体をにぎる。殺生与奪の権をにぎって人権無視の思想をうえつけるつもりだろう。

 かれはしばし書類に目をやって解放のサインをだした。合格不合格はここできまったようだ。

 ボクが学生服をきると、ぶあいそうな中年男が「第二乙種合格」としるしたほそながい紙きれをくれた。

 これは一九二二年、第一次世界大戦がすんで軍縮の時代のことだった。そのせいで、第二乙種合格は不合格をいみしていた。ボンヤリ者のボクでもそのくらいのことは知っていた。

 この徴兵検査におちたことは、おそらくボクの一生にとってなにより重大なできごとだった。おかげでボクは、いちども兵営の門をくぐることがなかった。第二次世界大戦にかりだされて無念の死をとげることもなかった。

 むかしは「父母の恩は山より高く海より深し」なんていうことばがあった。ボクの目は父親ゆずりでわるい。そのおかげで徴兵検査におちたわけだとおもえば、これは父の恩ってことになる。だが、その時点ではこんな殊勝なかんがえはうかばなかった。男兄弟が三人ともこのいみで父の恩をうけたんだからたいしたもんだ。それは山よりも高く海よりも深いといっていいだろう。

 この父の恩は、兵役をのがれさせたばかりじゃない。「どうぞ、お先に」なんて軽口をたたかせる心境になったのも、ボクのわるい目のしわざだったんだな。

1994年1月7日読売新聞に掲載

 

1-2. 白内障

見えなくなるのを待つなんて・・・

 一九六一年(昭和三十六年)、つまり還暦の年、ボクの目はかすんできた。江戸の火事の落語によく横山町という町の名がでてくる。今でも問屋の町だ。そこの親戚の、眼鏡問屋がある。ボクはそこへいって相談した。近視か乱視かがひどくなったんだから眼鏡をかえたらよいだろうとおもったからだ。

 むかしのことだから、その店に目医者なんてものはいない。しかし、もちはもち屋だ。白内障だろうから眼鏡をかえてもだめだといって近所の目医者を紹介してくれた。おやじは緑内障でボクは白内障か、とみょうに関心した。

 誤診とおもったわけじゃないけれど、甥のいる東大の眼科へ相談にいった。甥は主任教授をつれてきた。教授はあっさりと、白内障だ、二〜三年で見えなくなるから、そのときくるようにと気の毒そうにいった。

 ボクの対応はこうだ。見えなくなるのを待つんじゃなく、自分でなんとかしようってことだ。

 ボクは大それたことをかんがえはしないが、世のなかには医者をぜんぜん信用しない人がいる。

 ボクはそんな強気じゃない。見えなくなるのを待つ気がないだけのことだ。

 ここにある問題は、目のタチがわるいとはどんなことかってことだ。それを近所の親しいK医師にきいてみた。すると、血管網の特性じゃないかというんだな。

 テレビの画面でみたことがあるけれど、血管網ってやつはすごいジャングルだ。これが設計図あってのものだとはどうしてもおもえない。設計図を親からもらったら、ぴったりおんなじジャングルができるものかどうか、疑問はつきないんだな。親ゆずりとはいえ、クラスメイトのだれもが白内障をやっていない。この問題は血管網のちがいで説明できるものなんだろうか。

 血管網のちがいはいったい何だ。血のめぐりがいいかわるいかの問題なのか。毛細血管分布の密度、毛細血管の太さの問題なのか。

 こんなややこしい話はごめんだというお方は、健康について考えないほうがぶじだ。

1994年1月14日読売新聞に掲載

 

1-3. 遺伝子の秘密

健康管理は細胞がポイント!?

 同年の友だちがだれももっていない白内障という病気を、どうしてボクがもっているか、がここでの疑問だ。

 親の目がわるけりゃ子の目もわるい。それだけのことじゃないかなんていうことだったらむかしの人間の頭だ。

 今の人間の頭はもうすこし進んでいるはずじゃないかな。

 クリスマスがちかづくとモミの木がでてくる。このあいだアメリカの農園でそれをそだてている風景がテレビにでてきた。ボクはびっくりした。木振りがみごとにそろっているんだ。せたけも形もみんなウリフタツだ。こんなことはもうすたれたようだが、つべこべいわなくたって意味はわかるだろう。

 解説があったかどうかわすれたが、これは木振りのいいモミの木のクローンなんだ。クローンていうのは近ごろはやりのバイオのキーワードだ。こういうものを知っておくのも損じゃないはずだ。

 ランの花はすこしまえまではねだんがたかくてやたらに手にはいるものじゃなかった。それが、いまはけっこう手ごろな値で売っている。それはバイオっていう新しい技術のおかげだってことは、花屋でなくたって知ってる人がいる。このランがクローンなんだ。アメリカの農園のモミの木とおなじだ。

 ランでもモミでも種でふやすのがありきたりのやりかただ。クローンは違う。冗談にアインシュタインのクローンをたくさんつくったらどうかなんてことが話題になったことがある。

 キミははこれを脱線だとおもうだろう。どっこいそれは認識不足だ。ボクの健康管理学は分子生物学からでている。クローンも分子生物学からでているんだ。

 分子生物学のトップキーワードはDNAだ。それを遺伝子といっていいことにする。先週、設計図ってことばがでてきた。DNAは生命の設計図だなんていわれる。それでボクは設計図ってことばをだしたんだ。

 植物でも動物でも、そのからだは細胞からできている。よけいなことかもしれないが、これはサイボウではなくてサイホウだ。

 すべての細胞には同じDNAがおさまっている。全身の設計図がおさまっている。種子や卵子とおなじだ。だから、種子や卵子から一人前の生物がでてくるのなら、どこかひとつの細胞をそだてても一人前の子ができあがるはずじゃないか。クローンがそれだ。

 血管網の話がクローンに飛んだのはなぜかって。ボクは大風呂敷をひろげているんだ。

1994年1月21日読売新聞に掲載

 

1-4. 毛細血管の形

DNAでなく散逸構造で決定!?

 前回はモミの木やランの話がでてきた。それどころかアインシュタインのクローンの話まででてきた。

 ボクの話は還暦の年からはじまっている。そのころのボクはクローンも分子生物学も知っちゃいない。フランシス・クリックの分子生物学成立宣言からまだ三年しかたっていない時点のことなんだからな。

 クローンの日本語は分枝系だ。一本の木の枝の細胞は、どれをとっても同じDNA(遺伝子といっていいことにする)をもっている。分枝系という訳語はそこからとったものだろうが、クローンとは同じDNAをもつものをいうんだな。人間でいえば一卵性双生児がクローンだ。

 子は親のクローンじゃない。両親のDNAをごちゃまぜにしたDNAをもつからだ。おまけに、受精のときに突然変異もおこしている。子は種ににてはいるが、どっちにもにていないところがあるだろう。キミは父親とも母親ともちがうんだ。

 ところで血管系の問題だが、大動脈や大静脈のような、それがなくちゃこまるような血管の位置や太さには大まかな設計図があるだろう。それをDNAがきめているってことだ。

 動脈でいえば、心臓にちかいところから、大動脈・小動脈・毛細血管ということになっている。この毛細血管の分布はDNAがきめているんじゃない、とボクはおもっている。これは散逸構造になっているというのがボクの考えだ。

 そんなこというくせに、ボクは散逸構造についてろくに知っちゃいない。これをいいだしたのはイリヤ・プリコジンで、かれがノーベル化学賞をとったのは一九七七年のことだ。これもボクの還暦のころの頭にはなかった。

 散逸構造とは、エネルギーの流れが安定して定常状態になったとき、しぜんにできあがった流れの道すじ、といったらいいだろう。

 それはちがうと専門家にいわれたら、ボクは何もいわずにあっさり引きさがる覚悟だ。

 散逸構造は物理学上の概念だがそれ以外にもつかわれるようになった。

 木の枝分かれの形、水の流れが枝分かれする形、道路がしぜんに枝分かれしてゆく形—こういうものを散逸構造とする説がある。毛細血管網の形をこのなかまに入れたらどうか。そうすればこれはDNAの指令によらずにしぜんにつくられることになるんだが。

1994年1月28日読売新聞に掲載

 

1-5. ボクの目の弱点

血のめぐりの問題ではない

 散逸構造とかクローンとか、なじみのないことばをだしてきて何をいおうとしているのか。健康をめぐるエッセーを書くんじゃなかったか。

 この疑問にそろそろ答える義務がありそうだ。
 毛細血管がDNAの指令によらず、血液循環につごうのいいようにしぜんにつくられたものだ、と仮定すると、これは合目的なもの、と考えることになる。

合目的とはなんだ。その組織に栄養や酸素をおくるのにつごうよくできてるってことだ。

 組織は栄養や酸素をいるだけもらわなかったら、目的がかなうようにはたらくことができないじゃないか。

 ここでの問題はボクの目だ。遺伝的に目のたちがわるかったとしても、それは毛細血管網のせいじゃないってことになりそうだ。

 ボクは、はじめのほうでは血管網っていっておいて、ここへきて毛細血管網ってことばを変えたことに気がついていたかな。

 毛細血管の上流には小動脈がある。これの設計図はたぶんDNAにあるだろう。毛細血管となると設計図なしだからどうにでもなるんだ。切れたりつまったりすれば、たちまち新しいのができる。ここのところは合目的なんだな。

 小動脈と毛細血管とのさかいめには括約筋(かつやくきん)がある。これは血流の関所のようなもんだ。ここで血流量を調節しているわけだ。

 ボクの目には弱点があるはずだが、それが血のめぐりの問題じゃないってことをいいたかったんだ。これで友人のK医師が「血管網の特性じゃないか」といったことをひっくりかえしたつもりだ。

 ついでだからいっておくが、毛細血管に血液をおくりこむところの括約筋をゆるめる働きは自律神経でコントロールするのがたてまえだ。

 だが、血管拡張剤でも、ニコチン酸でも、イチョウの葉の成分フラボノイドでもこれをゆるめることができる。これで視野があかるくなる。視力の回復にイチョウ葉エキスがやくだつのもあたりまえだろう。

 ボクは白内障といわれたとき、それがビタミンのけつぼうによることを知っていた。教え子たちとやっている勉強会でみた本にあったんだ。

 そのころビタミンCをわざわざのむ人間などはいなかった。それなのにボクだけが白内障になったのはなぜか。目の弱点の遺伝とはいったいどういうことか。

これが問題だ。

1994年2月4日読売新聞に掲載

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